アトモスフィアの双盃

アトモスフィア(atmosphere)とは空気のことじゃなくて雰囲気のこと

行いのプロセスと、プロセスのプロセスのポケマケ

あるVtuberと人物がセネカについて嬉々として語っていた。咀嚼できないので、精魂を込めて反芻する必要があった。

 

今までの知識と体験を自動統合した結果、画面の向こう側の、さらに奥の向かい岸。瀕死に限りなく近づいた。右手の未来と左手の過去が、体の中心を引き裂くように安堵と戦慄に苛まれた。足の裏と後頭部の際限のない、空想的な発汗に惑わされた。いろいろ調べた結果、関係妄想という症状だった(自己診断)。後日「イデアの影」と「命売ります」に出会って、大体そこに書いてあった。人間は実感を持って初めて、病的に学に講じるようになる。

 

とあるVtuberとレーサーが言葉を巧みに操っていた。既成された概念を裁ち、自分の脳内からリズムを作る。その当意即妙な所作を藁にも縋る勢いで、小説が書けるような心持ちがした。

 

本を挙げていて、自分も読んだものは一つ。ならば、本を一つ、これをキッカケに読んでみようと思った。ラインナップも実にいい感じ、エッセイを推薦する人は大体正しいのだ。漫画以外の本を薦められる者は、人間性、考えがあるのだろう。図書館にあるオススメコーナーの技量というか、人としてy軸がぶれていない。

 

文字を通して、彼と対話できるような気がした。どうしても彼女ではなく男性として会話がしたかったのだ。YouTubeチャンネルなどの事前知識ゼロで読み始めたい。学校の卒業式で、サインを貰いに行った不思議な動機と相似する。かわいい妖怪?のような、キーパーソンとなる端役のようなトリックスター、まるで霞のような存在。こういう要素に一縷の希望を感じた。

 

私も全性愛者なんじゃないか?という疑問が湧いた。たまに「同性愛者なのかな?う〜ん…4分くらい考えて。いや、異性愛者だ。ホッ」と思うことがあった。そもそも、この疑問を抱く必要ある?と感じていた。

それを解決するのに、「全性愛者というものもある」考え方を取り入れてみようと思う。私には無かった視点、漠然と求めていた喉から手が出るものを、ようやく獲得した。苦節。そんな読後感を味わった。午後十一時の深夜番組のような気分。

 

 


読書とYouTuberについて、キャラクターの本棚リストや脚本としてのアイテム、販促に留まらない可能性を考えていた。そして映画やアニメ同時視聴、書評・レビュー、寄稿、演劇などの多岐を発見した。

 

その可能性を、電脳少女シロとモイラ様から感じて、早4年。ニクコケ?

 

癌を身体的なものと、精神的なもの(造語的。仮定として)に分類。前者を完治するものは科学的・火の鳥的・医学賞的。後者を完治するものを非科学的・?的(ポジティブ、コミューン?)・平和賞的。ピアノとカホンさえあれば、賞を創設するような。

 

1>>と99>>は私の分身を記した。魚拓はないかな?アーカイブは無かったはず。SEOを気取った「ヤバイ?かも?」の記事には呆れるし嫌だ、徹底的に調べていないから。でも世という物は陰、検索されてアクセスされて終わりの畢生。私はこのブログ手段を職場への怒りと本意に任せて作った。冨田も妹も加え(許容レス&ツッコミが割とあって吹いた)、火の鳥宝塚市高田馬場駅に向かった。平成と令和の狭間に、わをんがアンノウンして、再び掘り起こされた(恐らく10年後20年後以下略)。何かの望み、なのかもしれない。アクセス稼ぎをしたくないジレンマにより削除、1と99に残り「これでいいのだ」と呟いて、マスターピースを弔う永劫。