小中高大の図書室を憶えているか
あらためて考えていく。ここで大事なのは「室」であることで「館」はダメである。
小学校の図書室
たしか高いところにあった気がする。窓から街の様子が見えた。
あんまり本を読みに訪れた記憶がない。非常にもったいないことをしている、いますぐタイムリープをしてみた方がいいんじゃないかと不安で発狂しそうになる。
代本という板の概念があった。新学年になる4月に、上履きや筆記用具などの名前を変更する作業がある。その中に代本を書く作業があった。本を1冊も借りないような子どもにも代本が用意されていたのだ。
中学校のやつ
3Fの隅にあった気がする。盲点な教室である。
あんまり訪れた記憶はないが、入り浸っていた記憶がある。友達と本も読まずに、騒がない程度に集まっていたような。
ブラックジャックとはだしのゲンが全巻あった。これらの漫画はどうやら教育によいもののようである。ギネス記録をまとめた大判本もあった、重量のある本。
高校のやつ
3Fにあった気がする。学校の図書室、高い階に設置しがち。これは学年の拠点部が年齢と階数に比例してあるためである。学校によっては高学年を優遇し、入り口から近い階を最高学年にしているところもある。それは効率厨である。低学年は足腰を鍛えられ、教師は低学年の授業を担当したくなくなる。偏見。
例外なくあんまり訪れなかった。文化祭では古本市を主催していた、タダではないが集まったお金は募金かなにかで社会に還元していたと憶えている。
大学の
1Fにある。街の図書館をも凌駕する広さと蔵書数を備えている。一般開放もされており、居心地もよく、閉館時間も遅め。古本市ではボロボロの本がタダでもらえる。非常にありがたい。
最近、ミヒャエル・エンデのモモを読んだ。
この本はたいていの図書館には数冊置いてあるメジャーな本である。児童書のコーナーにあるもので、あまり行かない方面の棚においてあり驚いた。本の中身をみると、児童にわかりやすい文とは言い難い、送りがながほとんどついてある。
「泣く」にすら泣(な)くである。啼くでも哭くでもないのに。これについてはこの本が1970年代に翻訳され出版されたことが影響している。平成の人間は小学四年生で習う簡単な漢字だが、1989年より過去の小学生はもっと遅くに習う漢字だった。そういう事情も影響しているのか、送りがながめちゃくちゃある。小学生が逆ギレしちゃう。「それくらい読めるよ!!!!舐めないで!!!!!!」
岩波書店はそんな小学生の気持ちを慮るべき。今の漢字、読めたかな?ぱからっぱからっ。🐴
小学生がこの本を読んだらどうなるか考えてみる。微妙なのかもしれない、えーーー普通そうじゃね〜?みたいな。小学生は時間をたくさん持っていると思う。
自分と小さい年齢の人と話をするとき(1、2歳の差ではなく)、自分の時間という概念と対話者の時間の概念はどうなっているか?考えながら話していると自覚することがある。