アトモスフィアの双盃

アトモスフィア(atmosphere)とは空気のことじゃなくて雰囲気のこと

血液型を言わない、もしくは嘘の血液型を言う

この文章を書いている人間の血液型は何型だろう。
こんな書き方をしている、ということは自覚がないのだろうか?いいや、違う。

 

確かに私が何型かは自覚している。両親の血液型、兄弟の血液型、共に判明していて、辻褄はあっている。

正直に言わなくなったのは、いつからだったろうか。

高校の時くらいからだったか。適当に話を逸らしたり、誤魔化したり、いっそ嘘偽りの血液型を言ってみたり。

 

嘘偽りの血液型を言って、バレる可能性はゼロである。
だから目の前にいる、その質問を私に問いかけた、人間に対して私は「同じ血液型だよ」だと言う。

これが一番いいのではないか。

 

輸血のときに困るという。さすがにその時は正直に言うかもしれない。しかし輸血のシチュエーションは滅多に起きない。
雷に撃たれたり、宝くじに当たったり、食パンを加えながら頭をごっつんこするような確率である。

 

血液型を言わない。NOという選択肢はどうだろうか。

血液型を信仰している人は多い。そんなに信じていないけど、まぁね?みたいな人もいる。圧倒的多数は普通の人である。

こんな分野で長文を書かない人だ。あういうのはマジョリティと呼ぶ。

 

そしてマイノリティは世界に問う。私は何型なのだ?と。私はもちろん知っている。
世界、つまり私以外は経験則やそれぞれ指標に基づいて考察する。

最も適切な方法は、採血することだ。科学では何型かを調査できるが、その調査に基づくものは主観的なものである。AIに分かるだろうか。

私以外の答えは正しいのだろうか。偶然にも正解したとしても、正しい解き方であったのだろうか。
出題者の赦しが混じっていないだろうか。

 

この出題者は、こんなことでさえ雑談のタネにできない。アイデンティティの喪失、生命倫理の危機とすら捉えている。

 

「私の腹にナイフを突き刺せ。さすれば分かるだろう。」

内面を知るには深淵を覗け。いや、覗いてみろ。私の命を差し出す代わりに。さあ。
遊びでなんか、生半可な気持ちで言うものか。目を見ろ、耳をすませろ。

 

「…。」

 

…。ここまで言いすぎるとドン引かれるの確定だよな。大丈夫、これは小説。
小説って基本、ドン引かれるものだからさ。

 

さて、何型でしょう。