アトモスフィアの双盃

アトモスフィア(atmosphere)とは空気のことじゃなくて雰囲気のこと

室生 / 哲学

アングルは密書なり。

 

「室生」

 

電車に乗って空席に腰かける。すると、背の低いサラリーマンが舟を漕いでいた。爆睡している頭の中では、よほどの荒波が映像化されているのだろう。私の肩にぶつかるのは秒読みだ。文庫本と対面しながら、じっと構える。視線の端で、うっとうしい影が動いている。

 

こつんと、左肩に当たる。同時に目を覚ましたようで、会釈のような謝罪のような曖昧な動作のあと、1分と経たぬうちに再び出港する。わざとなのかな。他はダメだけど、左肩なら社会的に許されるんじゃないか。でも私は虚しくなるほど美少女ではないし、さすがにオーバーリアクションで演技には見えなかった。疲れている職場と眠くなる人間関係なのだろうと、勝手に同情のような気持ちになる。

 

ふと、深沢くんを思い出した。左の席に座るクラスメート。仲がいい訳ではないけど、隣なので会話をする程度。身長は私と変わらないくらい同じ。

 

ある日の1限目に席替えがあった。それが終わって、その日の2限目が始まる前。初めての会話は奇妙なものだった。声を掛けられたのではなかった。彼は左手の人差し指で、こつん…と私の左肩を1回、軽く叩いた。


ひっ、と出したことのないような悲鳴を上げた。とっさに左を向くと、目を丸くして困ったような顔をしている。顔に温度を感じたけど、恥ずかしいのも変な話だ。要件は他愛もないことだった。その印象は不思議と鮮明だった。

 

彼のことを考えるのは、教室の中だけで充分だった。電車の中で今まで一度も思うことはなかった。学校の近くに住んでいるから、徒歩で下校しているはずだ。

 

私は前のめり気味に体制を変えた。読書に集中する風を装って、空間に言い聞かせた。文字を読む速度は上がっていない。

背中に空白ができた。出口のドアが開く。私は立ち上がり、降車して改札口に向かう。背後からゴツンという、シンバルのような音が聞こえた気がした。

 

私には気になる子がいる。でも絶対、他人に教えたりはしないだろう。

 

***

 

「哲学」

 

5歳で永遠の別れとなった父が哲学マニアだった。彼の小さな書斎にある本は、私の思春期を待たずに全て読了してしまった。どれも綺麗で、ずっしりとした威勢のある本だった。

 

私は哲学者の生まれ変わりだと、信じて疑わなかった。結婚したいとマジで思ったとき、性別の異性を実感した。ちょっと遅いよね。

 

教授に「キミは普通の人にないエネルギーがある」と褒められたことがある。いやいや。一般的な褒め言葉ではないと思うよ、それ。

学校を出て、海外の空港を抜けたとき、時間の加速は凄まじかった。知りたいことのために海底へ、宇宙と、砂漠も行った。地獄と天国にも行かせてもらった。そこで生きた心地を教わった。

 

ある日。洞窟の中腹で、見つけられた。

自分で自分のことをおかしい人だと思っていたのに。ははーん。さてはオメェもヤベー奴だな。頭イッテルビウム

ため息が止まらない。お腹の底から笑みが漏れてしまう。いっその事、断る理由を作って逃げようか。でもバレてしまう可能性がある。ふふ、もうダメだ。あー終わった…。

運命?いつ別れるかも知れないのに。意味なんて、無価値で無配慮だ。本当バカバカしい。

 

まさか私が先立つとは。認めたくないし悔しい。でも未練はない。泣くほどでもないけど。研究も哲学も、代わりなんて幾らでもいる。あの小さな書棚から、私の人生は始まった。私の著した一部を寂れた実家に寄贈する。いつまでも友人たちと、飽きない読書を心から楽しむのだ。